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人と生きる、森と生きるー『狼森と笊森、盗森』についてー [ものがたり文化]

来年1月16日の発表会で、『狼森と笊森、盗森』をやります。
その入り口で考えたこと。明日のパーティで話し合って、もう少し良くなりたいなぁ。

 自然の恐怖、自然の安らぎ、自然のおもしろさをどのようなときに感じますか。それは、例えば山に登っていて、下山が遅くなり日没をむかえそうになったときの何も見えない暗闇の恐怖や心細さ。海を見ている時のどこまでも続く青さや深さを想像して気の遠くなるような感じ。思いがけないような紅葉の美しさに出会って、しばらく足を止めて動けなくなるようなこと。さまざまな体験があると思います。そうした体験を思い出して、『狼森』の物語で何もない野原に立ち、家を建て、畑を起こし、火を焚いて生活をする、という人たちの暮らしを想像してみましょう。

 その時代だから、ではなくて、自分自身がそういう環境の中でどのように生活しているかを想像してみる。何もないところだからそこで暮らすのは当たり前、ということで想像力を止めないでもう少し考えてみよう。一人ではなくて家族、村で生活する、ということはとても幸せなことでしょう。なぜならいろいろな会話や行動を通じてコミュニケーションをとり、お互いに暮らしが良くなるように協力していくことができるから。おいしいものが食べられるように、安全で暮らしやすい家ができるように、暖かい服が着られるように。
 一方で、自然との関係はどうなるでしょう。言葉を交わすことができない、顔を見ることのできない自然。でも、常に隣にいるのでどうにかして付き合っていくしかない。できれば、できるだけ良い関係、安心して暮らせるような関係をつくりたい、と考えるのが当たり前なことではないでしょうか。木を見て、森を見て、どのような雰囲気か、何か人間の知っているものがないか、またはそれに近いものはないか。そして、森の方でもきっとそう思っているんじゃないだろうか。そう考えて、森に名前を付けて、森のなかに入り、自分たちが持っているものを見せ自分たちの生活を伝えることで、森の生活も知る。「知らない」という恐怖から、「知っている」という安心に向かう。そして最後には「それから森もすっかりみんなの友だち」になる。僕は小学校の入学式の日にケンカをして、それ以来その子と一番の親友になったという経験があるけど、「友だち」というのはそういう衝突があることでより関係が深くなるということがある。『狼森』の物語は、子ども、農具、粟という村でとても大切なものが森に隠されるという事件があり、再び村に戻ってくる。そして、村からは粟餅を森に送り、それが毎年の習慣になった。友だちになるということ、お互いが協力し合える関係ができるまでのお祭りというか、儀式というか、「習慣の成り立ち」みたいな、そういうものとしてこの物語を感じてもらいたいと思います。
お祭りには繰り返しがあります。五日市でやっている秋のお祭りで、御神輿がなかなか交差点を通過しない、という場面がある。毎年。わざと戻したりするわけ。それはわざと、にも見えるんだけど、そうでないのかもしれない。お祭りは繰り返すこと、毎年やることによって、その時その場所にしかない大きなエネルギーが集まることがある。同じことを同じ人で繰り返すことというのも大切なこと。

聴覚 空飛ぶタネ
山を越え大地を踏みしめる人びと、大地に根ざした木、土地の象徴としての岩手山。この物語は、こうした大地のエネルギーの混じり合うところに成り立っている。それぞれの動き、振動、響きをどのように感じるか。それを、いのちのはじまりであるタネとして表現してみたい。
タネは空を飛んで新しい生活を求める。双葉が出たり、また戻ったり、根が出たり、形が変わったり。まだまだ木にはならないけれど、いのちのエネルギーが満ちている。
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